語りかける

 絵を描くときにさ、を意識しすぎて、つまり目を信用しすぎて、つまらなくなっちゃうみたいにさ、写真もそうだし書もそうだし、小説も詩もそうで、そうしないためには狂熱を使わなければならないと、耳元で誰かがささやいているんだけど、そういったこまごまとしたことは、ぜんぶぶっ壊したい。やっぱだよねえ。作ってくしかないんだよ。少しだけ関わりがあった画家が坂口恭平に「もっと量描きなよ」って言われたことに対して「量描いているんだけどなあ」って言ってたけどそういう量じゃないんだよ、だよ。断絶しないで持続すること手を休めないこと間断なく続く所作としての動きをあらゆることに及ばせること、二十四時間でも足りない、二十五時間目まで手を伸ばしていくこと、誰かに見せようとか、評価されたいとか、賞を取りたいとか、有名になりたいとか、そんなことどうでもいいんだマジで。狂気とおさらばしたかったけど、無理そうだね。だって保坂和志の『小説の誕生』を二十分読んだだけで頭が覚醒してちょっと危険だったんだから。覚醒って言葉が「固定化されて、その先がない」ってKくんに言われたけど、言葉によって何かを固定化する力は、動きのある対象に対して使うと、その動きが止まらないかぎり、活力になる。だが、ぼく自身が僕自身に言葉による固定化を使うと、僕自身には動きがない(あるいは乏しい)から、止まったところで終わっちゃうんだ。いまのぼくの批評における関係性は、ぼくとその対象(あるいは相手)という軸が必要で、外部を外に持たないこと内部に外部を持つことが、その先の道筋を示すことになる。つまり、批評するときの外部を、内部にまで持ってくること、もう外部なんてどうでもいいというところまで、内部に持ってきた外部を切実なものにすること、その時初めて、内部に持ってきた外部が内部になり、その内部を外部に送り返すことができる。それこそが批評だ。
 じぶんじしん(とかって、意図的に漢字をやわらかくするためにひらがなにしたり、ひらがなでいいところを、強めるために漢字にしたりすることの、こまごまとした神経の使い方のくだらなさ)、自分自身の基礎をつくり出すことが、すべてのものさしとなり基準となる。吉本隆明の『日時計篇』の書き写しを続けているのは、もちろん吉増剛造の影響があるけれど今はもうそれだけではなくて、敗戦によってすべて(自分自身も、自分自身が属する世界も)が壊れた吉本隆明が、なんとか自分自身を、瓦礫から(あるいは風からビルディングの影からペイヴメントの塵埃から)なんとか基礎をつくっていくその形跡を追っていくことが、いまのぼくにとって最も重要であるからだ。そう、自分を鼓舞し、奮い立たせるための言葉を、つくることに組み込んでいくんだ。だれかがお前のつくったものを否定した、「ああ、そうですか、そうですか」と相槌を打って、だれかが立ち去ったあと、またつくることに向かう。「お前才能ないから全部やめてもっと別のことしたほうがいいよ」って言われたら「ああ、そうですか、そうですか、ありがとうございます」と言って、またつくることに向かう。なぜなら、おれの無根拠であるがゆえに強靭な狂熱が導く力の方が圧倒的で、すべてを凌駕しているからだ。風が吹いて頬にあたり、頬が傷だらけになっても、目を潰されて、暗闇に向かうことになっても、手が止まることはない。おれは作ることしかできないから、作り続ける。ハロー、元気ですか。