何をしてもすでに書かれてしまっている 2022/04/02

 文字を撹乱するために絵が使われたことはかつてあったか? 人物画が文字とは程遠いことは、体がそう答えている。「お前にとって人物を描くことは、人面瘡が体中にできることに等しく、その瘡に話しかけられる予感が、正常なものの世界を打ち壊すだろう」
 絵に限ることはないが、ただひたすらに描くことでは、それ以上先には行けない。ここで行われるのは批評的な道程の操作であり、その上での操作からの逸脱としての創造。
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 一枚目、これは線の形を定めずに眠気と体調の悪さを感じながら描いたもの。「この絵はどう見ればいいのだろう?」不特定多数に対しては説明は要らない。だが、自分自身と、そこからとても近くにいるひとたちに対しては、ある種の責任を持たなければならない。見ることは見られること。(つまり、そこには誰もいなくてもいいのだが)。
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 二枚目は、形を意識して、色の配置は肉体(あるいは内臓)の反応を見ながら描いた。肉体が色とその形に対応しているのは面白い。批評を書くときに、何色ものペンや万年筆を使うことは、文字を均一に使うことへの抵抗と言える。舐達麻のBADSAIKUSHが「すべての人間が創造すればいい。おれにとってはリリックを書くことだが、小説でもいいし絵でもいいし映画でもいいし、なんなら地面に何かを描くだけでもいい」と言っていたこと。創造を意識する一方で、校庭の地面に一人で記号のような、絵のようなものを描いている原体験の重要性。形は残らなくていい。間断なく続く所作、その創造は、対象物ではなく対象物を捉えた時の肉体内の鏡像が変容することに軌跡を残していく。
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 三枚目。これは一枚目と二枚目を踏まえた上の、多少の実験性を踏まえたもの。色に対する肉体の反応は最初に無作為に置かれた色とその線あるいは形によって形成される。鋭い線を特に意識して使ったときに、どうなるか。「(困ってしまうな…いつも言われるように、色はあざやかできれいだけど、なんだかよくわからないって…お前はある作品に対して解釈を与えるのが得意なのに、自分自身がつくったものには、その程度のことしか言えないのか…)」言葉の持つ固定作用と、絵の持つ流動性を、相関・循環・融合させる試みとしての批評。結局、ほとんどすべてのひとびとの持つ普遍性は、あらゆる視点の固定化であると言い切ることができるのではないか。何をしてもすでに書かれてしまっているのなら、何、の定義を変え、書き方も変え、自分自身も変えなければならず、そのために固定化を仮固定とし、固まったものを溶かすようにして、流れを作っていくこと。流れたままだと形にならないから、流れが生まれたら、また仮固定すること。
 おやすみなさい。