実験としての草稿

 体に耳をすませながら、見たり思ったり考えたりして、それが道具によってかたちになる。たとえば道具がなければ写真を撮ることはできない。写真のような絵を描くことは、絵の目的が対象を目で見た通りに描き出すことにあるのだから、一つの結果として当然ではあるが、真っ青な顔をしたスーツ姿の男を見て、まだ熟していない青い林檎を描くことも可能である。それは道具によってではなく、対象を見る肉体の内奥の幻想が誰もがそう見えるように見ることをゆがませて対象を外界と内界の交流によって創造するからだ。

 カメラでその辺にころがっている小石を撮ったら、道端で裸体を晒し今まさに快楽の絶頂を迎えようとしているひとりの女が映る。お前はその写真と、肉眼でみる小石を見比べて、自らの認識の歪みに動揺しながら、その小石を拾ってポケットにしまう。

 一枚の写真がある男から手渡される。それはその男が八つ裂きにされた血だらけの死体の写真であった。男は手渡すとすぐに姿を消したから、彼が写真から顔をあげたときにはもうそこに男はいなかった。彼は肉眼でその男の死体を見たわけではないのに、そのぺらぺらの写真を信じて、と同時に今目の前にいた男の生存を肉眼で確認したこととの矛盾に、やはり動揺する。

 動揺とは何だろうか。信じていたものが信じていた通りではないかたちであらわれたとき、ひとは動揺する。動揺するということは何かを信じているということだ。では、何に対しても動揺しないとしたら? その人は、なにものも信じていない。

 信じるという言葉には誤解があるかもしれない。あたりまえに認めていること、と言い換えることもできる。ここにある鉛筆を、お父さんだとは決して思っていない。でもあるとき、この鉛筆が、お父さんであるということを知る。彼は動揺する。

 そこにお前がいると思っていたんだがな、そこにお前はいないらしいな。そこに体があるのに、それはお前ではないらしいな。そこにある体の口がおれに向けて語りかけているのに、そこにお前はいないし、だからお前の言葉でもない、でも確かにおれは「お父さん、眼球が破裂しているよ」という声を、言葉を、聞いたんだがな……