『ほどなく消えるおそれがある』

 一冊の本を読むとき、そこに何を読むことができるか。というより、何も読まないことは可能か? あるいは、読みながら読まないで、読まないながら読むことは可能なのか。
 機会があって、『星の王子さま』を、おそらく十年ぶりくらいに読み返して、おもしろい、すごい、うつくしい話だ、と思いながら、これは言葉とイメージの話だ、と思い、それについて書こう、と思ってすぐ、いや、そういう実践でいいのか、一冊の本を読み、そこに意味を読み取り、それをまとめて書くこと、それは、右のカゴのなかにあるものを左のカゴに移す、あの単純作業と同じで、なんの実践にもなっていないのではないか。
「本を読むこと、そのとき、本の読み方を変えること、そうではなくて、本を読むその本から何を受け取るかということ、でもなくて、その本から受け取ったあとに、何をするかが、大事なんだ」
 批評とは関係性から生まれるもの、と仮に定義することができるとしたら、ぼくは『星の王子さま』を読むことで関係性が生まれた。そしてその関係性は、一対一で向き合うだけのものではなく、どこかひらかれたところへ向かっている。それは夢の中の小径のようなところかもしれないし、大きな川へ合流するところかもしれないし、活火山のふもとに出るところかもしれない。
 批評と小説の違い。というのは、ある小説を読んだときに、そこから受け取ったものを、どう実践に持っていくか、ということにおける両者の違い。何のために批評するのか? 始まりは? おそらく、理解不能なものを目の前にしたときに、それをなんとか理解しようとすることが、始まりだった。そしてそれを理解しようとしても、理解不能であった。そこにものごとの超越性を見て、信じられないものを信じるようになった。でもそれへの接近が、理解不能への接近であり、そこに深化があり、ひとの限界点である境界に触れることであり、それはぼくを打ち壊した。
 ぼくは批評のはじまりについて話をしている。いまぼくは、理解不能の相手を、それでも理解しようとすることよりも、理解不能不能のままで、個としての人、あるいは一対一としての関係としての人、という〈守られた〉領域から出ることを考えている。それを小説から説明すると、ある理解不能な個に対し、理解不能を突きつけるのでもなく、その個に対し諦めるのでもなく、その個を理解しようとするあるいは諦めようとする自分を引いて、代わりにその個自身を一人称としてその個である自分自身を認める、ということで、大きな動きが起こるのではないか、そしてそれこそが、ドストエフスキーの小説の登場人物たちの描かれ方なのではないか、と気づき、考え始めた。――このように書くことは批評であるが、これを実践するとしたら小説である、としたら、このように書いた批評は実践ではないのか? 世の中に出ていくときの武器として、批評がある。その批評も、これまで通りでは、うち崩れてしまうが、そのこれまで通りを超える働きが批評にはあるから、それを武器とすることはいいが、しかし批評が武器であるというのは、あまりにも小さすぎる話だ。あるものごとに対して解釈をあたえること、それはせかいを変えること。せかいを変える、それを自分自身のためだけではなく、あるいは特定の誰かのためだけではなく、より多くに開かれた、つまりはせかい自身のためにせかいを変える。それはぼくがせかい自身を抱え込むことであり、批評の広がりは、全域に至ろうとする運動である。個の限界は、三年半という月日を犠牲にして、体感したことだ。それはもういい、もういいよ、そういうことごとも、ほどなく消えるおそれがある、しかしそれは、書くこと全般に言えることで、批評と小説の区別以前の前提だ。
 だが、ぼくは批評を、それっぽく小難しく「なんかすごいこと考えてますよ」みたいに書くつもりもないし、だれにでもわかるように、という安易さのための安易にいたろうとも思っていない。すでに、部屋の扉のないクローゼットに吊るされた原稿たちが、風と陽になびきながら、なんとも言えないむずむずするような音を立てながら、ある道筋、あるいは土台、を示している。しかし、ぼくにはまだわかっていない。どこに基礎があるのか。無意識が世界の前提でないのなら、そこから何を得て、何を為せばいいのか。
 小説を書くならば、得たものを書くという不可思議な変容作業の中でその変容後のものを実体験としてあるいは経験として為されたものになるのだから、話は複雑でありながら単純だろう。だが、批評を書くとしたら? 「えっ? なんでこの小説からこんなこと考えたの?」みたいなことを書けたらおもしろい。「そんなことこの本には少しも書いてないじゃん!」。ぼくは、批評するとき、その対象に対して、忠実になろうとしすぎていたのかもしれない。
 もちろん対象がなければ書くことができないという意味において批評は関係性のものである。関係性の…と書いて、その後に「芸術である」とか「創造である」と書こうとしたがためらいがあったのはなぜだろう。批評の既存の文体を使わないこと。モーリス・ブランショの『来るべき書物』を少し読んで、面白いけど、なんか違うな、と思ったのだった。これからぼくは保坂和志の小説論三部作を読み返すことになる。批評的な小説、小説的な批評。既存のものを打ち壊すために、いや現に打ち壊しつつある今、吊るされた何枚もの原稿たちが、夜風にあたって、からからと音を立ててなびいている。