2022/03/10

 ジャック・デリダ『散種』の中の『プラトンパルマケイアー』の書き写しを始めた。

布地をほどく作業は、また布地を組織体として再構成する。切断力をもつ痕跡の背後で、一つ一つの読解の裁断の背後で、布地自身の織地が際限なく再生される。批評はテクストの戯れに熟達した主人としてそれを統御し、それと同時にテクストのすべての糸を監視できると思い込んでいる。(略)批評はまた、テクストに触れることなく、「対象」に手をつけることなく、そこに何か新しい糸を付け加えるという危険を冒すことなく(指を挟まれるという危険はあるが、それはゲームに加わる唯一のチャンスである)、テクストをそっと見守りたいという欲望を抱くことによって、思い違いをしている。

ただし、刺繍をほどこす術を知っているということは、(略)隠された糸(略)を辿るのに長けているということだと、そう考えているのであれば別だが。

読むことを書くことに連結するこの〈である〉は、縫い目をほどく激しい戦いを引き起こさなければならない。

「方法論的慎重さ」「客観性の規範」「知の防護柵」によって自分の持ち分を投入することを控える人は、読んでいるとさえ言えないだろう。

 「布地」「組織体」「切断力」「痕跡」「裁断」「刺繍」「縫い目」「指を挟まれる」という、普通考えられる哲学書にはないような手の痕跡が、読んでいるとまるで布地に触れているかのような感触のざわつきとしてあって、頭だけで考えているという感じがしない。ここでは批評について書かれているが、「テクストに触れる」「対象に手をつける」ということが、意味としてあるだけでなく、体の動きとしてもあることが、今ぼくが考えている批評の肉体性というものにヒントを与える。批評の肉体性とは、批評の実践ということであり、実践とはぼくにとって、体の動きだ。あるいは、体がここにあるということの痕跡を残すことだ。考えるとき、体がここにあることからひとは乖離する。たとえば声は、喉の震え、肉の共振であるが、文字は体の不在である。自らの肉を彫刻刀で削り取って、それを原稿用紙にべたっとぬりつけてゆくことが書くことであればいいのだが、と考えてみたが、それでは体から肉は削れ、原稿用紙は血にまみれてしまう。この乖離について、神田橋條治対談集に、おもしろいことが書いてあった。

神田橋 (略)ジェンドリンさんについては、他にもこういうのがあったね。フロアから、「先生は、ノンバーバル(言語を使わない)なことやフォーカシング(人間の体験過程に注意を向け続けることから意味を見いだそうとする心理療法の一連のプロセス)というのをずっと追求してこられた。だけど一方で、先生は哲学者ですから、理路整然としたものを求めるということがあるのではないか。その二つは、先生の中でどんなふうに統合されているのか」と質問した人がいたのね。
 そうしたら、ジェンドリンはこう言ったんです。「フォーカシングをやると、どんどんフォーカシングが発展する。あなたが言うように、これは非言語的な世界だ。そうすると、私の哲学はそれに刺激されて伸びていく」と。「その結果、どうなりますか?」と聞かれて「それは大きなVです。victoryです」とか言ったの(笑)。
 だから、ああいう対話が上手なんだね(笑)。二つは、どんどん離れていく。離れていくけれども、その結果、大きなVが出来てこうなる、「だから、victoryです」とか言ってね。何かねぇ、面白いなとは思った。
 だから、あの人は、論には負けないんだよな。

 victory、勝利、これは言語でも非言語でもない達成と言えるかもしれない。ふと、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』のラストを思い出す。言語によって非言語まで変えられてしまった主人公が、戦旗の高揚に駆け走るさまは、まさに勝利と言える。もちろん『一九八四年』の場合は、悪い場合であり、ジェンドリンという人の言う勝利は、その反対であるが、人間自身の変化あるいは成長という意味では同じだろう。ぼくはデリダが書いた批評への批判を痛感しながら、「方法論的慎重さ」「客観性の規範」「知の防護柵」というものが、ぼくが前回書いた、右のカゴの中にあるものをスキャンしてから左のカゴに入れるあの動作というものの本質をあらわしていると思い、ここから抜け出るためには「何か新しい糸を付け加える」こと、「隠された糸を辿る」こと、そして「読むことと書くこと」の「縫い目をほどく激しい戦いを引き起こ」すこと、という箇所に、勇気づけられる思いであった。オーウェルのことが思い起こされたのは、今、オルダス・ハクスリーすばらしい新世界』を読んでいるからだ。
 この小説の本質は、いまのところ、言葉によって世界を作り変えてしまうこと、と書くと簡単なようだが、読んでいて感じるのは、言葉によって、言葉の外に出ていくことができない世界をつくりあげることで、人間の持つ偶然性(それは言葉の持つ偶然性)をことごとく排除し、それは「自然を隷属的に模倣する世界を卒業して、人間がゼロからすべてをつくりだす、はるかに興味深い世界」として、ユートピア的なディストピアという人類の可能性を描いているということだ。
 いったい、デリダの『プラトンパルマケイアー』と、『すばらしい新世界』が、どう関係しているのか、とあなたは尋ねる。ぼくはこう答えます。
「言葉を使うこと、というより、文字を使ってなにかをつくることは、大きな欠陥を持ち、その欠陥をさえその言葉は補うことができるけれど、現実は、その言葉による世界のもろさを熟知していて、しかしその熟知を説明するためには言葉を使わなければならず、ゆえにそこから何かを立ち上げるためには、言葉からうまれた言葉ではなく、現実から生まれた言葉を使う必要があり、現実から生まれた言葉は内界ではなく外界に属していて、もちろんそこに循環は見られるが、肉体、と書くことすら、言葉との距離が近すぎるために、現実ではなく、人々の中にいるそのうちのひとりとしての私が人々がいるその町その地域ひいてはその国その世界からかたちづくられたものとしての体、こそが現実で、そこにこそ肉体があり、現実のここにある今の所作としての書くことが生まれるのです。可能性のひとつとして、頭で考えられた世界は、それはそれでおもしろさはありますが、ぼくはそのおもしろさに対して、批判的にならざるを得ません。それがあまりにも高度な達成であったとしても、です。お分かりいただけますか。それでは」