2022/05/03

 空白が一行あらわれる。空白を空白と見てとることだけはできる。それ以上のことはできない。だから指を動かす。粘土を練るような動き。形はなにかをあらわしているかのようになる。たとえばすべてのもじをひらがなにしてみる。そうするとよみてのかんしょくがかわって、ここちよいおとがうまれる。でも、それでなにかが表現できていると思うことの、危険さ。ぼくらの思考は形式を絶えず破壊しなければならない。なぜなら、逸脱こそが創造であり、形の中でいくら動いても形の中であるということからは逃れられないからだ。もちろんそれを、例えば村上春樹に言えるかどうかはわからない。それはひとまず置いておこう。ひとには種類があり、自分自身がどのタイプであるかは、だれかを真似ることによってわかる。読んでいる本に、きみは線を引くかい。付箋は貼るかい。線を引くのなら、何色で引く? 付箋はどんな形をしている? 痕跡がすべてであり、そこが道になるが、それは後に続く者たちが確認すればいい。もちろんぼくらの分裂は多種多様をうみ、あらゆる形をふくむこともあるだろう。先人が向こうの雲や山や、隣の湖や遥か向こうの海に光となってぼくらを導くことはあるかもしれない。でも、たどりつく場所は異界である。ある道を歩いていた。そこから次の一歩を踏み出すときに、とてつもない幻の煙が立ち込め、過去現在未来が混ざりあった風景があらわれる。きみが空を飛ぶ夢をみる。しかしその夢を朝おぼえているのなら、それは現実である。疲労感のただなか、明日のことを考え、眠りにつくと、次の瞬間に明日がくる。それもやはり時の化合物である。どこかでだれかが死ぬ。きみはそれを想像することができず、自分自身の悩みに苦しむ。ああぼくはその苦しみに、他人の死を見出すだろう。空白に傷のように浮き出た言葉は、それほどにおそろしく、愉快だ。きみの声をぼくはすべて聞く。きみが声を出していなくても。そこにあるすべて。考えられるかぎりのすべて。そして、考えられないもののすべて。ぼくたちはまた、次の一行の空白を見る。