帰る人のうしろ姿は見てはダメなんだよ 2022/04/07

 三年日記を買った。五年日記と迷ったが、おそらく三年でぼくは劇的に変わる。濃い三年を意識して。
 今日は病院と買い物以外、何もしなかった。寝てばかりいた。本を読まなければ書くことはできない。と、思っているが、それをもう変えたい。絵も、最初は全然書けなかった。毎日何枚も描いたら、描けるようになってきた。坂口恭平の油絵がとてもよくて、ああいうのを描きたい。ああいうのとは、具象と抽象が混ざっているようなもの。記号ばかり描いていても仕方がないから。一つの実践を目指すこと。書くことも、本を読むことによる蓄えを出していく形ではなく、もうなんでもいいからとにかく体と外を循環させる。本は自然に読みたくなるだろう。でもしばらく本を読まずに書くということをやってみてもいい。例えば、机の上の物について書く。ペン立てが六つあって…と、それだけで十分書ける。もちろん退屈であるから、そこに何かを混ぜる。描写、というものが、入ってくる。見るだけでひとは何かを実践している。実践のための何かを蓄える時期はもう終わったよ。
 完成された人と、未完成な人について、昨日友だちと話した。役割としての人(例えば、会社の部長)と、人としての人(例えば、その人が親友といるときの、やさしさなどの個性)の、両方が大事で、前者だけに傾くと、完成しすぎて、固まってしまって、後者だけに傾くと、なんの形もなくなってしまう。両者をどっちも持ち、相関し合うことの重要性。デイケアで言えば、スタッフさんは完成に近く、利用者は未完成に近い。ぼくにとって作ることは、その相関を手助けする。手はふしぎな動きをする。手が驚いたりする。何が「完成」していて、何が「未完成」なのか。未完成な人と関わるのも飽きたし、完成された人と関わるのもしんどい。だれとも関わりたくないと思っている。「心は開かず、閉じるべきだ」目は開けずに、閉じるべきだ。簡単なこと。心と目を閉じて、歩いていくこと。笑顔で、ひとに迷惑をかけず、でも誰にどう思われてもいい。好かれようが嫌われようが。ぼくは甘いことを言っているかもしれない。でもようやく、始まりの地点に立った気がする。どうでもいいからぼくは、これからもっといろんな人と関わるかもしれない。
 深夜一時半。ぼくは逃げるみたいにずっと寝ていた。シェリングの弾くバッハのヴァイオリンソナタ&パルティータを聴きながら寝ると気持ちよくて。本はそこにあるだけで何かを発している。中井久夫はたしか本棚から発せられる本の気に耐えられなくて、本をすべて逆さまにしたと言っていた。神田橋條治は良い本か悪い本かは手をかざせばわかると言っていた。ぼくにもそれがわかる。ある霊能力者に言われたが、ぼくには霊感があるらしい。その霊能力者の考え方をいまの僕は否定するが、ぼくのことをいい当てたことはまあ事実なので、霊感についても、あるかもしれないし、ないかもしれないくらいのところに留めているが、まあそれもどうでもよく、とにかく何かを感じる。思考と感覚は違う。(そう、色を塗るように、一つの色彩の横に別の色彩を置くことで動きをうむように)書くことは楽しい。小説を書くことは、いまのぼくにとって身を滅ぼすことであるが、単純に書き方を変えればいい。何も起きなくていい、という小説のあり方を考える。いまのぼくにとっての小説でなくても、思考することはできる。材料は、手元にあるものだけで、天才科学者か天才科学者と思い込んでいる科学者のように、なんか作れる。それでいい。つくることに逃げるとかっていう気持ちも大事かもしれないけれどつくることとともに生きることが大事だ。信用、信頼=人間性+社会性+実績。眠くなってきた。横尾忠則の『原郷の森』がおもしろい。本は読めないものだから心配するな、ってタイトルの本があって、少し安心するけどなんか嘘っぽいなあという気持ちもあるのだった。「本はほんとうに読めなくてそれが苦しいけどその苦しさこそが本を読むことだ」眠っているひとは起こしてはならないし、帰る人がいても、それを侮辱したり、あるいは励ましたりしないこと。見えないものを見よう。おそろしいのは、もし毎日歩く道に橋があったら、飛び降りかねないということ。目の前にあったからといって、本棚をいくつも壊してしまったように。でもそれを絶望的ではなく、喜劇的に。ひとびとはつまらない。昨日言ったことは撤回しよう。ただぼくは死にたいって書きたいだけ。