2022/04/10

 毎日四千字の原稿を書く修行を二日前から始めている。今日で三日目。言葉は体を出入りしながら、外を見せ始めている。外を知りはじめて中を知るようだ。四千字はこんなにも簡単に書けてしまうものなのか、という思いと、一日一万字書いたら発狂するだろうな、というおそれが生まれている。人は中だけで書くことはできない。もしかすると半分外で、半分中であれば、一万字でさえ書けるのかもしれない。今はまだ中の方が多い。外が多い人は、どんどん書くといいと思うのだが、外が多すぎると、書くことはできなくなる。死体は広がっている。ミサイルを撃ち込まれたのだ。
 抽象と具象、という話で行くと、そこが明確に分かれすぎていることはつまらない。だが、あきらかに体は明確に分けている。人物画を描くのは、原稿を四千字書くのと同じくらい大変だ。本を一時間読んだ後だと危険ですらある。だが抽象画、つまり色彩で遊ぶだけでは、いくらでも描ける。もちろん体力が尽きるまでは。精神力はいくらでもある、と今は言える。
 ぼくが外の小さな(そして守られた)世界で使う言葉は、あまりにも凝り固まっていて、でもそれに気づかせてくれるひとがいて、いまぼくは明日そこへ行ったら、どんなふうに何を話すことができるか、と考えているが、話そうとすることを書いてしまうと、そこで言葉は死んでしまうので、ぼくはなるだけ言葉にせずに考えを続ける。ぼくだけの考えではないということが本当にうれしくて、それだけで泣きそうになる。マスクがあって良かったと思う。でも、みんなの表情はもっと見たい。出来事に対してぼくは相当に表情を持っているらしい。ぼくが楽しく笑っているとき、あなたたちはどんな表情をしているだろう。
 ここでまた四千字書こうとしているのか。今は深夜一時。夜四時間の仮眠をして、それは仮眠と言うのか、山下澄人の新刊『君たちはしかし再び来い』を少し読んだ。おもしろすぎて、というかすごくて、びっくりしている。本はいつも持っていなさい。本は外の空気を吸いたいと思っているよ。所有している本が雨漏りで濡れたとき、吉増剛造は「本も濡れたがっていたんですよ」と言ったという。本も風に吹かれたいし、地面に落ちたいし、渡されたい、そして、燃やされたい。火に魅了されているぼくは、自分の体を燃やしたいという願望が日に日に強くなっているが、そんなことはきっとしない。でも長生きしたら、そして自分自身に限界を感じたら、つまり、作ることができなくなったら、衝撃的な死を遂げたい。水の中で死ぬのではなく、火の中で死ぬこと。でも、そういう想像もまた、書くことの火の中に薪のようにくべられる。
 指はいつまでも動く。ぼくはひとと通話するとき、四時間くらいは平気で話ができて、しかも相当に難しい話をしているときもあって、それがそのまま書くことに活かせるようになってきているのかもしれない。書くことも、いろんな実験が必要で、実験を否定してはならない。でも実験だけしていてもだめだが、ぼくの体の観察が必要です。書くことのギアチェンジとして敬語があるようです。こんばんは。お元気ですか。ぼくはあなたが好きです。