2022/03/20

 きっといろんなことがあってさ、ひとつのこと、たとえば見るってことを考えるだけでも、みんなちがう、もうすこし手のとどきそうなところに何かがあっても、その肉を噛んでいるところを想像してみても、気づいたら宇宙の真っ暗にいたり、水のなかで溺れてたりする。偶然にそこにあった、いた、みえた、みえなかった、でもある、感じる、そう、「そこにあるよ」って、そっと指をさす。
 合図を送る。文字は燃やしたくなるから、声、ずっと先で、こっちを見てるのかみてないのかもわからない、でも言う。いないぜって隣の人が言ってもいう。
 とりかえしがつかないって、その逆で、意味は同じ通路で、伝わらなくても、ぼくはうれしい。
 俯瞰したら見えなくなる。もしすれ違うそのひとに声をかけたら、なんかすごいことが起こる。数秒で遠のいても! そのことにけっこうみんな気づかないし、当たり前すぎてどうでもいいのかもしれない。
 当たり前すぎることにとどまることは、それをあらゆる初歩的な前提として打ち捨てるひとたちが先へ行くひとたちだということを意味しない。後ろを向いて歩いた方がいいときがある。もちろん全員死ねばいいときもある。全員腸管からめくれかえって植物になってしまえばいいときもある。そこにあるものが見えないという人たちを全員射殺すればいいときもある。でも、手がうろたえることはない。思考はすべて手にあって……じゃあ手がない人は? そうやって問いの立て方を間違えるんだね。
 なんかすごいことが起きる、そのとき体の実在感があれば良い。体があるという前提で、体に何かが起きれば、万年筆で、そこにある手に文字を縫い付けることができれば高速になる濁音が消える速い速い速い速いそしてどんどん遅くなるそれがもう文章操作を超えて意味を消して形骸だけ残してでもそれが次の形骸のための所作として絶倫する。
 一から始めること。0はもういい。