吉増剛造×郷原佳以『デッドレターの先に……』から引用

「震災以後、吉本隆明さんの書かれたものを筆写するという少し狂ったような作業をつづけていたんですが、ちょうど郷原さんの「デリダの文学的想像力」の最終回あたりを読んでいたときに、デリダの初期の一九六八年に「プラトンパルマケイアー」という大作があるんですけども、これがポイントかなと勘をつけて――僕はそういう勘はわりと当たるんですけど――郷原さんの書き方でこれがポイントだなというのを、おそらくそのときに読んだんですね。『詩とは何か』を出す前になぜか吉本さんの筆写をやめて、それが終わってこの本になって、今度は郷原さんから刺激を受けて、「プラトンパルマケイアー」の筆写を始めていました。筆写というか、写経というか、書き込みというか、打ち込みというか、落書き、グラフィティーのほうが当たるのかもしれない。そういう名づけがたい行為をしていて、デリダ論を、わからないのにもかかわらず筆写をする。そのとき別の自分がもう二、三人いるんですね。筆写をするというのは、手も動かす、頭も動く、何かする。頭の方は全然わからないのに、もしかしたら誰かがわかっているのかもしれないと思って筆写をしているんですよね。おそらく昔のお坊さんもそうだったと思いますけれども、それを写し終えたのがきのうのことでした。
 よくぞやったと思うけれども、『散種』という大変な本の中で百九十ページもあるこの論文を、一種のはかりがたい無意識の時間を自分でつくりながらやり終えてみて、(略)
 たった一人で筆写をするんじゃなくて、おそらく七、八人の意識が働いて筆写しちゃうんですね。打ち込み、書き込み、下書き、落書き、そういうふうにしていきますと、自分の中の言語意識も変わってきますし、それを今、話題にしていただいている『詩とは何か』の文体というか、他に語りかけるような方法を自分の中で巻き込みながらつくっていく。しかもこれは語りかけるような、手紙のようなやり方なんですね。「みすず」の連載のなかの、配達されない手紙、デッドレターというんですか、そういうものでもあるし、そういうものを自分なりにつくり上げてきた。しかもそれは自分なりに考えると、書けもしないような遺書を、自分自身に向かって語りかけるのは恥ずかしいから、こっそりささやくようにして書くふりをしている。
 そういうことをやっていて、三ヶ月かかってようやっと筆写をし終えて、最後にびっくりしたんですけど、デリダが突然変な点を打ち始めています。そのことも聞いてみたいけど、呼吸が違ってくる。呼吸というとリルケ的になちゃうけど、そういうものじゃなくて、挙措とか挙動とか、そういう不思議なものが違ってくるんですよね。その方が「パルマケイアー」の最後のところへ来て、デリダに惹かれているというのは、この最後にあらわれてくるような、一種の名伏しがたい力なんだな。デリダは最後のところで、打撃する。原語でcoupというですか、そういう不思議な挙動の力。声の光の力。力の光みたいなものが聞こえてきて、ああ、五十年かけてここまで来たのかと。(略)僕もまた、当てどのない、届かない手紙を書くようにも感じていて、柳田さんにもやっぱりそういうところがあるんですよ。ちょっと嘘っぽいようなところもあるし、何か不思議な、文体とは言えない、そういうものをつくり出しているような次の段階にまで来ていました。」