2022/06/06

 運動。その人がわたしをやさしいと言ったからといって、ガーニャのように小踊りすると、当然何かが失われる。全身は感覚を通り越して、ある高まりに入ってゆく。これも視座、これも技術。
 そこから(どこから?)平行線が交わり、それを知ることはできない。知らない場所でどのようなことが問題とされるかを、考えることはできない。
 晴れた日に、砦を前にして、それを自らの肉だと思い、砲撃を撃ち込まれ、心身を失ったと思い込む兵士は、おそらくどこにでもいる。
 文章が体から頭に至らずに、書くことができ流。そこに確かな飛躍があると知ることが、運動を信頼することである。
 走るからと言って、どこへ行くかなんて、誰も考えていない。考えられるのは走る前だけ。