2022/03/13 言葉を使うことは

 ひとはひとりひとり別宇宙を生きている。相容れない相手だけではなく、通じ合っていると思い込んでいる相手も、自分とは違う宇宙を生きている。言葉は、別宇宙の相手に、こっち側から向こうへ、別宇宙を知るために送られる探査艇である。
 ぼくらはなにもコミュニケーションできていない。この文を読むひとも、この文を読めていないどころか、ぼく自身も、ここに書いたものを、数日後に読み返したら、知っているようで知らない人、夢のなかで一度会ったことがある人、くらいな気持ちで、読むことになる。
 一冊の本を批評することは決して、解読することではない。解読は普遍性に解釈し直すことで、一冊の本の中に出てきた特殊な言葉を、簡略化してしまうことで、それを無化してしまうことになる。だれにでも通じるように書くことは、別宇宙を別宇宙とせずに同じだよって別宇宙の中に入り込んでいくことだ。言葉を使えばもしかするとそれもできるかもしれないがそのとき自分自身も入ってしまうことは危険だ。ぼくは本が読めない。
 このまま何もできずに終わってしまうのでないかという不安はきっとだれにでもある、と言うときのだれにでもは、わかりあえると思い込んでいる関係性の中で生まれる言葉だ。ぼくらは分かり合えない。だから言葉を使う。でも言葉を、分かり合える前提で使うことは、危険だ。
 別宇宙っていうのは、その人が見てる世界のことで、その人はその人が認識してるさまざまな知人友人家族他人がいて、そのぜんぶをひっくるめた世界だ。それを踏まえて別宇宙同士ってことを考えると、それが構造上どうなっているか、って考えることは、一定の得るものがある一方で、虚しい。どんな小説も詩も哲学も批評も、伝わらないことが前提となっているのなら、こんなに新鮮なことはないだろうってくらい、あらゆるものの見え方が変わる。頭がほんの少し良いだけで、この新鮮さには気づきにくくなる。ぼくらはとれたてキャベツのようにみずみずしい。

 明日から活動を本格化する。第一次デイケアショックは終わったと見て、次へ行こうと思う。どうもありがとう。もう配信もつぶやきも、やめた。