いる、いない 2022/03/23

 そこにいたひとりの女性が、ぼくのことばでいなくなったとぼくは思ったが、彼女にとっては「わたしはここにいるんだ」と思った。わたしはこんなふうにいるんだ、と。
 ぼくにとっては彼女はいなくなった、いなくなった。彼女はぼくをとてもいると感じている、感じている。何度だって言えばいい、彼女はそこにいて、いないぼくはそこにいなくて、いる
 ぼくらはかたちづくられる前の状態にあって、始まりはアダムとイヴだ。この世に六十億の人がいるせかいと、ふたりしかいないせかいは、決定的に違うけれど、アダムとイヴは子を授かり、繁栄する。アダムとイヴの目は乾いてゆく。水を与えられずに死んでゆく犬のようなアダムと、根を断ち切られて呼吸ができなくなったイヴの、触れている土は、砂になって、ふたりを底の方へ沈めてゆく。ぼくらはここから始めることができる、とアダムとイヴの墓の上でぼくはジェスチャーを加えて声をかける。「そこにいますね?」
「います。声をかけないでください」
「見ませんか。鳥が落ちて軽トラックが踏み潰しました」
「それは父のものです」
「ぼくはむしろ親近感を覚えました」
「言葉を使わないでください」
「わかりました、でも触らせてください」
「なにを?」
「沈黙を」
 もうぜんぶいいからさあ、圧倒的な量を見せてくれよ。おれは小手先でつくられたものには興味ないんだよ。つくれよ